稲生幸成と中原蒼二が来る。

 
Ko&Edge Co.『美貌の青空』/ぽんプラザホール(福岡市博多区祇園町8-3)開演7時。
私の4枚目の真鍮板は客席から引き出す、アブナイ即興。ステージと客席が近く、男たち3人が引き倒し、震わせる真鍮板から巻き上がる風と光の乱反射がライブ感を横溢させる。

終わって楽屋に稲生幸成が来た!!10年程まえに後藤治のところですれ違ったが、殆んど25年ぶりか・・・・驚いた。驚いたのは、彼が博多だったのを可笑しなことにスッカリ忘失していたことの方だ。旅から旅の海外ボケということで赦しを請う。雪駄をツッカケ、肩を落とし、片手をポケットに、当日パンフを丸めて話す彼と話しているうちに、70年代半ばの「大駱駝艦」時代、いっしょにキャバレーで踊り、いっしょに『激しい季節』を編集した日々がつい昨日のことのような軽いめまいと錯誤感に墜ちる。『激しい季節』の編集は彼なしにはなかった・・。二人でいっぱい取材して沢山の記事を書いた。多くの故人の記憶が立ち上がる・・・しかし、いったいどれだけ時間が過ぎたというのか?稲生とは、一夜の感慨にむせぶにしても<記憶の折>にたたまれたものが多すぎる。
ちょうど私が『舞踏派背火』を旗揚げして福井の山間に稽古場<北龍峡>を開いて独立し、福井と東京の往還を繰り返していた頃、更にパリへ移動してしまう直前、南青山キラー通りに地下劇場、芸術キャバレー『shy』をオープンして自ら『Neonあるいは、Neant』を上演した、そのキッカケをくれたのも稲生幸成なのだった・・・・。
そのうえ北九州市から中原蒼二が観に来てくれた。二人の合流も事件であった。JCDNの佐東氏にとっても噂の二人なのであった。そもそも中原氏が状況劇場を出た麿赤兒の『大駱駝艦』旗揚げ(1972.9)のプロデューサーであった。そして彼が編集刊行していた『カレイドスコープ』というタブロイド版のカルチャー・ペーパーに触発され、その編集協力も頂き、それに対抗するように、共闘するようにして、私が編集刊行したのが全紙版の『激しい季節』だった。そう、『激しい季節』は全紙版を誇示した・・・けれど金と手間がかかり過ぎた・・・。

打上げは櫛田神社真ん前の「博多べい」。酒が美味い。中原や稲生からは明晰で厳しい批評のコトバも聴き、佐東氏、福岡・FFAC三浦さん、吉村さん、照明の荒巻さんが喋ってくれた。ハシゴする。朝4時まで焼酎をいっぱい呑んだけれど稲生とは話が尽きなかった。次の博多再訪は、1週間くらい身体を空けてやらないと。